今回の大震災の直後、現地に義援金を送るように求める出演者のメッセージをテレビで放送しているのを観て、興味深いと思ったもののひとつに、
「すぐに義援金を送ってください。千羽鶴は要りません、千羽鶴は送らないで。できれば現金がいちばんいいのです!」
というのがあった。
千羽鶴っていえば、ウィキペディアによると
最も有名な折り紙である折り鶴を1000羽作り、糸などで綴じて束ねたもの。長寿のシンボルでもある折り鶴を1000羽折ることで、病気快癒・長寿がかなうという俗信があり、入院者への贈り物などとしてよく用いられる。
広島市への原子爆弾投下で被爆し、原爆症で死亡した佐々木禎子が自らの延命を祈って作ったことから、平和のシンボルにもなっている。世界中から送られてくる千羽鶴が広島平和記念公園にある原爆の子の像の周りに手向けられている。
大きな震災の被災地に、送られがちなものなのです。
でも、同じウィキペディアには、こんなことも書いてありました。
地震などの被災地に千羽鶴を贈ることは、被災地への輸送手段の一部を、被災者の生活や被災地の復興に役立たないもので占拠してしまうことになる。殊に日本以外の国や地域への送付は、文化(特に精神文化)や風習の違いもあるため、絶対に避けるべきである。千羽鶴が被災地で「単なるゴミ」として焼却処分されたこともある。
千羽鶴を送るよりも、被災者の生活に支障しない義援金の寄付などの方が望ましい支援の仕方である。
まさにその通り。
千羽鶴は飾っておいてきれいなものでもないし、場所も必要だし、いただきものだと更に処分に困ると思う。
でも、日本人のわたしたちの場合、この、「せっかく作ってくださった思いと祈りのこもったものだから」という感覚が人一倍強いかも。
それで、色々なものが処分できないことになりがち。
それでは、『思い』や『祈り』はこの折り紙の鶴にどれだけこめられているのだろうか?
思いと祈りは、十分にこめられていると思う。でも、それはその鶴にくっついている物体なのではないと思うのだ。思いや祈りは、エネルギーなのだからね。
千羽鶴を折るのは、時間もかかるし、折り紙を1000枚買うお金も必要だし、輸送も大変。とても無駄かもしれない。
その物理的な労力を、もっとエコな『思い』と『祈り』に転換しようではありませんか。